仄暗い惑星
夢と希望をエサに人間を酷使するディストピア
若者はくたびれた大人を眺めながら
窮状から抜け出すチャンスを伺っている
待望の「エイリアン」シリーズ最新作!
クリーチャー映画の未知への恐怖や、身震いするようなスリルを世に広めた代表的なエイリアン・シリーズの最新作です。
エイリアン1〜4、プロメテウス、コヴェナントに続く7作目ということになるのでしょうか。
時系列で言えば、エイリアン1と2の間の出来事という設定のようです。
とにかく予告編で流れる映像をなん度も見ながら、公開が楽しみでしょうがなかった映画です。
顔を鷲掴みにしたり硫酸をぶちまけるグロテスクな場面があったりと、これまでのエイリアンシリーズのお家芸を踏襲しつつも、「ドント・ブリーズ」のフェデ・アルバレス監督による新たな恐怖描写も加わっており、「やっぱりクリーチャー映画といえエイリアンだよな〜」と改めて思わされました。
私が注目した点について
プロメテウス以降、人類やエイリアンの起源について謎を解き明かしていくという視点も描かれるようになります。
そしてそこには、物語を一層謎めいたものにするアンドロイドという存在がいることも忘れてはいけません。
今作ではアンドロイドという合理的AIと、人間という感情に左右されやすい生き物との行動原理の対比がとても興味深く描かれており、そのあたりについて私なりに感じたことを語っていこうと思います。
YouTubeショート 【レコメンそじぼ】
私のYouTubeチャンネル『レコメンそじぼ』でも、本作品を紹介していますのでぜひチェックしてみてください。
映画の感想
1. 人間とAI
シリーズ全体を通して物語の鍵を握るアンドロイドは、いつも漠然と暗い未来を仄めかしてきます。
救世主のような頼りがいのある役目を果たしたかと思えば、実は秘密裏に人間を操ろうとしたり、支配しようと企んでいたりするなど、謎多き存在です。
今回も人間とアンドロイドとの間で生命の選択をめぐり、激しいせめぎ合いが行われます。
誰がなんの目的で創ったのか知る由もない人間と、その人間が創り上げたアンドロイドとの間で生命の捉え方に齟齬が生じるのです。
2. いつか来る「真価を発揮」できる機会
「人生で自分の真価を発揮する機会を生かしたか、生かさなかったか。」
「夜と霧」ヴィクトール・E・フランクル
合理的だが非情な生存方法を選択するアンドロイドと
何もせず見つめることしかできない残酷な選択に打ちひしがれる人間
そういったシーンを観ていて、私はフランクルのこの言葉を思い出しました。
何気ない日常における些細なことであっても、私たちは逐一「選択」をしながら生きています。
多くの人は自分の真価を発揮できる時がいつか来ると期待しながら、当たり障りのない決断を繰り返して日常を生きています。
「真価を発揮するのは今ではないから、ここは穏便に済ませてやり過ごそう。」
「合理的に考えると重要なことではないから、とりあえずあやふやに返事をしておこう。」
そうやって傍観的に日常を過ごし、先延ばしにしてきた「自分の真価を発揮する機会」はいつやって来るのでしょうか。
もうとっくに通り過ぎてしまってはいないでしょうか。
いくつもの「真価を発揮する機会」を、合理性という言葉を都合よく使って過去に置いてけぼりにしてきてはいないでしょうか。
人生は歯医者の椅子に座っているようなものだ。
さあこれからが本番だ、と思っているうちに終わってしまう。
〜 ビスマルク 〜
3. 人間とは合理性と非合理性に揺れる生き物
合理的に生きるのか、非合理的に生きるのかという選択
この選択は、ただ合理的にミッションを遂行するという軸で生きていくのか、それとも「自分は苦悩に値する人間か」という軸で生きていくのか、という言葉に言い換えることもできます。
合理的に生きるだけでは納得できないのが人間だと思います。
だからこそ主人公たちはリスクを負ってでも仲間を助けようと行動します。
そういった非合理的な魂を、人間は先祖代々引き継いでいるのかもしれません。
まとめ
合理的なAIでは作り出せないもの、それが非合理的な精神の自由だと思います。
どんな絶望的な状況であっても、自分の内面にある精神的な自由は誰も奪えません。
この自由をなくした時に、AIは人間に取って代わる脅威の存在になるのかもしれません。
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