私たちはためらわずに言うことができる
いい人は帰ってこなかった
〜 夜と霧 V.E.フランクル 〜
著者紹介
ヴィクトール・E・フランクル (1905年〜1997年)
ナチス強制収容所の体験者の一人
1942年、家族と共に強制収容所に入れられた彼は、過酷な労働を強いられながらも
「生きることだけでなく、その苦悩や死にも意味がある」
「苦悩と死があってこそ、人間という存在は完全なものになり得る」
と、生きる意味を解きつづけました。
前書き
絶望的な環境にあっても肯定的な生き方を探し求める姿勢は、多忙でストレスフルな日々を生きる現代の私たちに勇気と希望を与えてくれます。
この本の中で印象に残った文章を、私の感想も述べながら紹介しいきたいと思います。
YouTubeショート 【レコメンそじぼ】
私のYouTubeチャンネル『レコメンそじぼ』でも、本作品を紹介していますのでぜひチェックしてみてください。
目次
恐れるのはただ一つ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ
筆者はドストエフスキーのこの言葉を、「けっして失われることのない人間の内なる自由」として、どんな暴力を前にしても、人間としての最後の自由だけは奪えないのだと説明しています。
いつの時代においても、置かれた環境でどのように振る舞うかは自分次第です。
圧倒的な力の前にひざまずくのか
人間としての尊厳を守るのか
どちらが苦悩に値する人間の決断なのか、シンプルですが深い意味と堅い意思を感じる言葉です。
苦境からなにをなしとげるか
人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的になにかをなしとげるかどうか、という決断を迫られるのだ。
戦後80年近く経ち、平凡で穏やかな毎日を私たちは当たり前のように享受しています。
昔とは比べ物にならないほど物が溢れる時代になり、一見豊かな人生を送っているように見えますが、消費者として当たり前の生活を送るための労働は多忙を極めています。
朝も夜も車両に詰め込まれ、漂う口臭に耐えながら無表情を装わなければならない状況は、強制収容所へ送り込まれる移送車両を彷彿とさせます。
他人の人生を生きているような無力感に苛まれる毎日ですが、忙しさに気を取られてばかりでは人生に決断をくだす権利を失ってしまうことになりかねません。
もしも今の生活に不満を感じるのであれば、それは迫られる決断を自ら放棄し、他人に譲り渡してしまった結果なのかもしれません。
内面的な勝利を掴み取る
人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。
来る日も来る日も労働に身を委ね、疑ったり抗ったりすることは無駄であると刷り込まれていると、いっそのこと自分の選択権など譲り渡してしまった方が楽だと思うようになります。
覚束ない希望が余計に今の自分を苦しめるのだと、ついには現実に高を括るようになります。
疲れ切った身体や沈んでいく心とは裏腹に、元気になってくるのが後ろ向きな気持ちです。
過去の生活にしがみついて心を閉ざし始める被収容者と、自分の決断を放棄して意気消沈していく労働者はどこか共通するものがあるように思えてなりません。
内面的な勝利を掴み取るのか、一日が終わり胸を撫で下ろすのか、苦悩に値する人間への決断を私たちは常に迫られています。
まとめ
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ
「何のために生きているのか」という人生に対しての問いは、生きている以上自然と湧き上がる疑問です。
私も苦しい立場に置かれた時には、この問いがよく浮かび上がってきます。
しかし筆者は、本当に問われているのは私たちの方であり、「生きること」が私たちから何を期待しているかが重要なのだと言っています。
苦境に立たされた時、「生きること」を失望させずに何をなしとげられるのか、今一度立ち止まって考えてみたいと思いました。
参考文献
「夜と霧」
著者:ヴィクトール・E・フランクル
訳者:池田香代子
みすず書房
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